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  • 執筆者の写真便利堂 国宝事典係

沖縄の文化財、歴史と継承

更新日:2019年12月16日

 寒さが厳しくなってきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。春の暖かな季節に完成した『国宝事典(第四版)』は刊行から8カ月が経ち、既にお買い求めいただいたお客様からは、ありがたいお言葉や貴重なご意見を頂いております。誠にありがとうございます。

 さて、本事典は2018年11月1日現在で指定されている国宝を収録していますが、その後も新しく指定された国宝が増えています。そのため、今後これらを「第五版」として増補・改定して刊行していく予定ではありますが、それまでの暫定的な対応としまして、このたび新指定を収録した別刷を制作・更新し、付録として本編に添付することになりました。

 今回の別刷では、2018年11月1日以降から2019年9月1日現在の4件の新指定を収録しています。購入された方は、このHPからダウンロードできますので、是非ご覧ください。

 その中から本記事では、沖縄県那覇市所蔵の「玉陵」と、沖縄の文化財にまつわる歴史についてご紹介します!



「尚」氏と琉球国王

 玉陵は2018年12月25日に、国宝に指定されました。玉陵とは、権力者を埋葬した大きな墓のことで、1501年に築かれて以降、琉球第二尚氏王統の人々が葬られました。


 そもそも琉球王国とは、1492年から450年間にわたって沖縄諸島を中心に存在した国で、尚巴志という人物が、それまで3つに分かれていた勢力を統一たことで成立しました。以降、尚巴志の血筋の人々が琉球王国を治めますが、現在では彼らをいわゆる“第一尚氏”と呼びます。


 しかし第一尚氏は、琉球王国を統一したものの権力基盤が不安定だったため、わずか6代で王の座を追われてしまいます。そのクーデターを起こした人物が、第一尚氏の重臣であった金丸です。彼は王位を継承すると、自らを「尚円」と名乗りました。このため、第一尚氏と区別するために、尚円から19代にわたって琉球を統治した王家を“第二尚氏”と呼びます。


 今回国宝に指定された玉陵は、この第二尚氏王統のお墓です。第二尚氏3代目国王であった尚真が、尚円を移葬するために築いたと言われています。では、なぜ玉陵が国宝に指定されたのでしょうか。それは、琉球の葬送慣習と「玉陵」の建築様式にあります。



琉球の文化を伝える王家の墓

 現在の沖縄や奄美地方では、古くから人が亡くなった際に「風葬」と呼ばれる葬法がおこなわれていました。風葬とは、遺体をそのまま、あるいは棺や小さな小屋に入れて、崖や洞窟などに置き、時間をかけて自然の力で風化させる葬儀方法です。さらに沖縄奄美地域では、風化後に「洗骨」と呼ばれる、遺体の骨を水や酒、海水などで清める過程を経て、あらためて厨子(骨壷)に収納するのが一般的でした。


 もちろん琉球時代も同様にこの風葬がおこなわれていましたが、その陵墓の様式には他と異なる特徴がありました。それが「破風墓」と呼ばれるものです。破風とは、切妻造や入母屋造の側面の造形のことで、断面が三角形になっているものを指します。琉球時代の王陵にはこの三角屋根がついており、さらには王室以外のお墓では破風墓の造成が認められていませんでした。

(国宝事典 第四版 591頁より)

 そのような琉球時代の破風墓のうち最古にして最大の王陵が、この玉陵です。墓室は、東室、中室、西室が並び建ち、創建当初は中室に遺体を置き風化させ、洗骨後に王と王妃は東室へ、他の王族は西室へ納骨されていたことがわかっています。


 これらの点から、玉陵は東アジアにおいて独自の文化的発展を遂げた琉球の、建築文化と葬墓制を象徴する陵墓として極めて文化価値が高いと認められ、今回国宝に指定されたのです。



文化財の焼失

 さて、このように現在の沖縄には「琉球文化」という中国とも、朝鮮とも、日本とも異なる歴史と文化があり、それを伝える文化財も数多くありました。しかし、現在国宝では「玉陵」と「琉球国王尚家関係資料」(沖縄県那覇市所蔵・那覇市歴史博物館保管)の2件だけしか指定されていません。その大きな理由の1つに、太平洋戦争時の沖縄戦があります。


 1945年3月に硫黄島を占領したアメリカ軍は4月1日に沖縄本島に上陸し、日米両軍は島民を巻き込みながら3カ月にも及ぶ激しい戦闘をおこないました。そのなかで、アメリカ軍の上陸に備え配置された日本軍第32軍は、首里城の地下に大規模な地下壕を掘り司令部を置きます。このためアメリカ軍はこの場所を総攻撃し、結果として首里城や琉球にまつわる貴重な資料・建築物の多くが焼失や焼損してしまいました。

戦前の首里城守礼門(『戦火等による焼失文化財』文化庁編・便利堂発行より)

 このように、いま残っていれば琉球独自の文化を伝えるものとして国宝に指定されていたはずの貴重な文化財は、戦争によって数多く失われてしまったのです。



復興と継承のために

 また残念なことに、2019年10月31日に首里城のうち正殿や北殿、南殿など7棟が、火災によって再び焼失してしまいました。沖縄の人々のシンボルとも言える首里城が再び燃える光景は、映像等を見ることすら辛いものでした。

焼失前の首里城正殿

 現在、首里城復興に対する支援金の受付は始まっていますが、例年に比べ焼失以降、首里城周辺などを観光する方は減っているようです。しかし、今回ご紹介した国宝の玉陵は戦争によって各所損壊したものの全面的な修理が実施され、現在も公開をしていますし、「琉球国王尚家関係資料」が保管されている那覇市歴史博物館など、琉球や沖縄の歴史に触れられる場所は数多くあります。


 文化財は保存され未来へ継承されていくことが第一に大切なことではありますが、そのものの貴重さや魅力を知って護り伝えようとする人がいなければ、継承することはできません。ましてや、被災してしまったものを修復したり復元したりして未来へ伝えるのであれば、なおさらのことです。そのためにも、その場所を実際に訪れ実物を見たり感じたりすることが、文化財の復興や継承に必要なのではないでしょうか。


 今回、国宝事典第四版の別冊として刊行された新指定分の解説をきっかけとして、ぜひ玉陵を訪れ、琉球と沖縄の素晴らしい文化を感じてみてください!



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